◆[山形市]駅西・双葉町 鉄骨と小春日和(2018平成30年11月25日撮影)

駐車場に車を止め、すぐ近くに駐められた車のまぶしいミラーに目が吸い付けられる。
そこには駅西の光景が、晴れ渡った空とともに映り込んでいた。

秋はMAXを過ぎ、初冬に入っている。
輝く葉っぱが、「平成よさようなら」と次から次へと散っていく。

さすがに山形駅近く。
コンテナがそのまま残っている。
自転車は窮屈そうだけど。

雲一つ無い空からは100%の陽光が降り注ぐ。
歩道はテカテカに光り、人の影もくっきりと力強く歩んでいる。

新県民会館の偉容が姿を現しつつある。
まだ無粋な鉄骨のみだが、その姿に山形県の未来を感じ取る。

まだまだ新県民会館はベールに包まれている。
見せるわけには行かないと、バリケードのように遮蔽するのが気にくわない。

大空に伸びるクレーンは、
その遙か上を飛ぶジェット機を見上げながら立ちくらみすんなよ。

やっと広大な空き地が塞がるという安堵感と、
市民の本音とは違う建物が建ってしまうという違和感はぬぐえない。

灰色の歩道に、色褪せた枯れ葉が舞う。
葉の落ちた枝が影を這わせ、人々は枯れ葉をカシャッカシャッとと踏みつけて通り過ぎる。

空中にテルサの文字が浮いている?
いやいや、鏡面仕上げの看板を撮っただけですよ。

霞城セントラルが×印だと、クレーンに否定されている?
いやいや、ほんとにたまたまのクレーンの配置。

初冬にしては強すぎる光が、
ビルの壁へ斜めに影を貼り付ける。

「こだんどごもくるりんバスは走てるんだがした。」
最近いろんなところでくるりんバスを見かけるが、
目がくるりんと回るほど、市内を複雑に回っているらしい。

昭和の思い出が沸々とわき上がり、どうしても双葉公園に立ち寄ってしまう。
葉っぱは陽光を浴び、土に還る準備に余念が無い。

いつ来ても子供達が屯している双葉公園。
三の丸の堀を利用した公園だから、他の公園と違い、
公園内に高低差があり、変化に富んでいるんだ。

巨大なたこ足滑り台を始め、
この公園の遊具はコンクリートがメイン。

あんまり太陽がまぶしいものだから、
太陽から隠れる位置に移動する。
それでも梢の隙間から光は漏れこぼれて照射してくる。

この小径は周りよりやや高い。
おそらく三の丸の土手がそのまま散策道になったのだろう。

昭和っぽい公民館が、看板だけ真新しく浮いている。

どうみても「たばこは二十歳になったらやめましょう」と読める。
そういえば学生の頃、ろくでもない先輩はよく言っていた、二十歳になったらやめると。
そんな先輩も今では還暦をとおに過ぎている。

「天気いいがら、汗かいでよぅ。」
袋の中の葉っぱはムンムンムレムレ。
この落ち葉を集めた方々もさぞや汗を掻いたことだろう。

冬の風物詩があちこちにぶら下がっている。
都会に季節感が無いのは緑が少ないからじゃない。
こういった季節に合わせた人間の営みが希薄だからだ。

落ち葉は白っぽい乾燥派と黒っぽい湿気派に分かれている。
ここまでくれば、どっちでもいいんね?
「人間も還暦過ぎだら、どっちでもいいがもすんねな。」

桜の枝影が、小屋に掛かっている。
小屋に掛かって居るのではなく、熊手に手を伸ばしているのだ。
自分の体から落ちた葉っぱは、自分で掃くつもりなのか。

観光地になんか行かなくたって、あちこちに小さな紅葉が隠れてますよ。
葉っぱの赤いフィルターを透かして、暖かな光が、そこにだけ満ちている。

人生初めての孤独を、土に還る前に味わっている。

「なえだて空が青く抜げるみだいだもなぁ。」
「抜けだらどうなんのや?」
やっぱり空は抜けない方が人間のためかも知れない。

我が母校三中の校章がボッロボロ。
三中時代の思い出が蹂躙されたようで悲しくなってしまう。

テニスコートのネットは弓なりになって凝った体を伸ばす。

三本柱の水面の部分が揺れ動いている。
山形人の心に雪近しという不安がよぎって波打つように。

車はみんな整然と並ぶと同時に、太陽の光を一斉に反射させている。

サッカースタジアムをとの市民の願いもむなしく、
県民会館が既成事実を積み上げている。
ここまできたらしょうが無い。ちゃんと県民に喜ばれる施設にしてくれよ。

サンタは空中でボヨンボヨン。
人々も年末が近くなり、地に足が着かない感覚になりつつあるかも知れない。
TOP