◆[山形市]長根・富神山 黒雲と太陽と滴(2018平成30年4月8日撮影)

山形盆地最西端の長根で、土筆たちが山形の街並みへ手を振っている。

なんぼ叫んでも誰も看板を見てくれないものだから、
建物も無力感を醸しているし、障子は自暴自棄になり破れてしまった。

「あついッ!」
「なにが熱いのが?」
よく見れば、あなたのまちをいつもきれいに と読める。
「あ」と「つ」と「い」だけが浮かび上がったのはよほど夏の間暑かったから?

どんよりとした冷たい空気に被われるなか、
雨の予感に黙りを決め込む長根の村。

タラの芽が普通に道ばたに生えている?
それを誰も採ろうともしない。
そして私は採らずに撮った。

寒さに震えているけれど、
きっと太陽は見捨てないと上を向く。

雪が消えれば、去年の夏がガワガワになって現れる。

「ほだんどごさおつこまて、何したのや?やんだごどでもあっけのが?」
逃げ道を失って狭いところへ逃げ込むような自転車。

雲は我慢の限度を超えたようだ。
冷たい雨が、地面や畑に花びらに降りしきる。

とりあえず地蔵堂で雨宿り。
木の芽は縮み、富神山は雨に霞む。

いよいよ雨脚は強くなり、地蔵堂の雨樋からは、
ビジョビジョと雨が騒ぎ立てて落ちていく。

いつ止むか分からない雨を待っている訳にもいかない。
天気が良ければどんなに草花は輝いて見える事だろうと、悔やみつつ
足元の泥を気にしながら歩む。

雨粒に打たれ、黒雲の流れを眺めながら、
それでも土筆はツンツン伸びる。

去年夏の枯れ草たちは、一塊の異物と化してジットリと全身に雨を含み、
その角をかざしながら、地面をヌーッと這い上がってくる。

視界不良のミラーは濁った目となり、
辺りの景色を映すことに意味を見いだせなくなってしまった。

桐の木の枝には水滴が連なっている。
寒の戻りと思うか、慈雨と思うかはそれぞれか。

前向きに咲こうとしている花びらの先から滴が落ちる。
「雨は嫌いだーッ」と心で叫んでも、富神山は何も答えてくれない。

あれ?いきなり水仙が光を帯びてきた。
富神山に愚痴を言ったのが効いたのか?
やっぱり東の千歳山、西の富神山は山形人を懐深く見守っている。

「ちぇっとしたいたずらっだなぁ。」
富神山のてっぺんへ滴を垂らして、ごしゃぐが試してみようとする枝。
「富神山の顔も三度だがらな!」

西山形地区は、何はなくとも富神山。
富神山が消えたら、地区民の心は空洞になってしまう。

「まだあのクネクネ道ば登らんなねのぉ?」
心の中の怠惰な部分が囁く。
「あそこまで行ぐど、またなにか新しい景色が見えっかもすんね。」
心の中の前向きな部分がムクムクと膨らむ。

自身が芽吹くのを後回しにして、
辺りの春の膨らみを見守る一本の木。
今日は黒雲に被われて見えないが、
遠く蔵王や竜山、そして千歳山を何年と眺めてきたのだろう。

「おまえが!空ば突いて雨ば降らせたのは!」
枯れ木に八つ当たりをして、その樹皮をしげしげと眺めてみた。
自分はなんて事をいってしまったのだろう。
やっとの思いで空を向く枯れ木は、
なんの言い分けもせず、軋む体でひたすら踏ん張って立っている。

トタンが並び、適度に錆が浮き、端正な味わいの完成形に達している小屋。

雨後の竹の子ならぬ雨後の水仙は、
滴を払いのけ、より一層その発色を増している。

「年寄りだがらて、体ば冷やさねようにカッパは必須っだべ。」
先ほどまでの冷たい雨は、老残の車体にはかなり堪えたかもしれない。

「年寄れば年寄るほど、富神山が愛おしくなんのよ。」
寿命を迎えようとしている廃棄車は、その体を富神山の方向へ向け、
柔和になった目を細めている。

冷え切った花びらを滴が伝う。
パッと照った太陽は、薄い花びらを発光させて、大気の中に浮き上がらせる。

「なんなんだず、この青空は。さっきまでの黒雲と雨はどさ行った?」
よく考えてみれば、長根の陰と陽の両方を一度に味わったことになる。

「ありゃぁ、さっきの車は片目だっけのがぁ。」
「いまのうぢによっくど、富神山の姿ば目の奥さ焼き付けでおげよぅ。」
車は日差しがまぶしいのか、ちょっとはにかんだような表情で応える。

寒さと雪に耐えてきたからこそ、春の空気がありがたい。

「ビニールシートもタオルも、冬からの脱皮だぁ。」

あの撮影開始時のどんよりとした大気が嘘のよう。
すべてが明るく発色し、心の中で小躍りしている。

盆地の反対側、山形市街方面を眺める。
奥羽の山並みやビル群は青黒く沈み込んでいる。
西バイパス辺りまで光は届いているようだから、もうちょっと待って山形の市街地たち。
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