◆[山形市]長谷堂・城山 緑にむせかえる(2013平成25年6月16日撮影)

最上義光は霞城公園の騎馬上で長谷堂を睨んでいる。
長谷堂ではゴジラが山形をのんびり眺めている。

「オラだは冬以外でも役立つもんだま」
「んでもこの暑さにはまいっずねぇ」
ストックは篭の中でひしめき合い、うんざりしている。

長谷堂には昭和がさび付きながらも残っている。
スズラン街の靴の万邦っていまもあるのか?

城山の突端には八幡神社がある。
草ボウボウで人の訪れる気配も無いが。

八万口からダラダラの山道を少しばかり登ると、左手眼下に長谷堂の家並みが見えてくる。
その向こうには千歳山とともに、山形の市街地が横たわっている。

上ってきた道を顧みる。
あっづい日差しが砂利道を焼いている。

木陰に隠れたシダは、微かにこぼれてくる光を手招きするように揺れている。

大樹の根元になんだがわがんね植物。
「光ば浴びでんだがら邪魔すねでけね」
「こう暑いどきにシャワーは気持ちいいべなぁ」

首筋を汗の流れていくのが分かる。
ハンカチを取り出し、展望台から山形の市街地を眺める。

「なんだて、こだい立派な看板があるんだどれ」
しばし案内図と風景を交互に眺める。

梢を渡る風の音しか聞こえない。
時たま蜂のブンブン飛んでくるのが気になるけれど。

「どーれ下山すっかぁ」
今度は上ってきた八幡口とは違う、観音口というところへ降りていぐべ。

「おまえだら前回来たどぎど同じ格好だどれ。
仕事してんのが?」
「オレは葉っぱが落ぢだどぎ以外は働がねんだ」
箒は自分の義務だけは放棄しない。

「たらよう」という樹で別名「エカキバ」だと、
地元の知り合いに教えて貰った。
確かに葉っぱには文字や絵を描くことが出来る。

何気なく灯籠をのぞき込む。
バッタが黒い影になって身じろぎもしない。

長谷堂観音を遠目に見ながら、アジサイも頑張ったなと目を細める。

「昼なに食う?」
「ソーメンでいいべぇ」
「んだら、ヤマザワで納豆買わんなねなぁ」
木漏れ日の下を会話がくぐり抜けて遠ざかる。

落ちるか落ちないか、際どいところでバランスを保つ葉っぱ。
石にへばりつく苔が摩擦係数を高めて、なかなか落ちないらしい。

つづら折りの道を下って、まもなく観音口へ出る。
頂上とは微妙に空気が違う。平地は零コンマ何度か気温が高いに違いない。

ぽたぽた落ちて、アスファルトの炎熱地獄を味わう羽目になった。
なのに平然としていられるのは何故?

何度通っても心地良い通り。
観光地擦れした通りより、名も無き通りにこそ飾らない美しさがある。

「やんだべぇ、ほだんどごで咲いでんの」
「やんだやんだてゆったら、どごさ行っても咲がんねぇ」
トリトマの花は孤高を守り咲いている。

赤茶けたトタン屋根、簾に夏の植物たち。
郷愁を誘うのは何故だろう。

長谷堂の目抜き通りに出る。
往時の賑わいは知るよしも無いが、門伝生まれの母がいっていた。「長谷堂はでっかいまぢだっけもなぁ」

「こだいぎっつぐゆすばがっでよ、なしてこだな目に遭わんなねんだず」
きっとたばこ嫌いの人の仕業に違いない。

ザクロの花が鮮やかすぎて目に突き刺さるようだ。
でも、突き刺さる日差しによく似合う。

どっしり構えたポストが頼もしい。
ぼてっとした垢抜けない、いや、真っ赤だが垢抜けない形が信頼と親しみを感じさせる。

湧き上がる真っ白い雲と真昼の裸電球。
長閑すぎてなにもしたくなくなる。

「あぶないがら飛び出してくんなよ」
酒の瓶は退屈すぎて、暇つぶしで威嚇するように人を驚かす。

「わう〜ッ、むせるぅ」
草いきれが充満し、我も我もと緑色を競っている。

クワッと口を開き、鼻を持ち上げる象。
「退屈で大きな欠伸しったわけではないんだべ?」

あまりの色とりどりさに目を奪われる。
あの真冬の陰鬱な光景と比べたら、まさに楽園。

静かな薬師堂なのに、この賑やかさはなんだ。
タニウツギはここぞとばかりにあでやかさを発散する。

額や首筋の汗を拭きながら、日差しに慣れた目を落ち着かせる。
薬師堂はじっと見つめ返してくるようだ。

「地図みっど蓮沼てなてっから来てみだら、鯉沼だどれ」
「しかもあぶない場所なて看板あるし」
鯉が食いついてきそうな勢いで迫ってくるあぶない場所なので、早々に退散すっか。

ビニールの破れ目から雑草が顔を出す。
ぐったりしたビニールを裂くのは赤子の手を捻るより簡単だと言わんばかりに。

電線を白い雲が跨いでいく。
バラは顔をほてらせて涼風を待っている。

草の緑に飲み込まれては大変と、
照りつける陽の下で、人々は家の中に隠れてしまったのか。

空に打ち上がる花火のように、アリウムは紫の大輪をポンポンと咲かせている。 
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