◆[山形市]霞城公園 ふるさとの吸引力(2013平成25年4月20日撮影)

霞城公園の吸引力は凄い。
東大手門の中へ次々と人々が吸い込まれていく。

「なして日本人てカメラ好きなんだべねぇ」
「カメラが好きなんだが、写真が好きなんだが、桜が好きなんだがわがんねべした」
なんだかんだいいながら自分もカメラを手放せない。

場内に響く太鼓の音には、脳天からつま先まで揺さぶられるようだ。
ついでにたるんだ腹もタプタプ揺れる。

「やんばいだっけなぁ」
「どれ後片付けしていぐべはぁ」
心地よい汗を流して去って行く。

「パイナップルなのいだりゃあ」
供えられたカブやニンジンやサツマイモが、
世の中は変わるもんだなぁと何気なく考える。

「撮ってもよろしゅうございましょうか?」
「何?首を取るとな?」
「いえいえ、写真を撮るのでござりまする」
「写真を撮るとは、魂を抜くことであろうが」
勝手に想像を膨らませながらバシャバシャ撮りまくる。

「別にオレが撮っだいわげんねくてぇ・・・勝手にカメラが・・・いや、勝手に指がシャッターばぁ・・・」
「理由なのどうでもいいっだず。とにかぐ綺麗なのは撮るべぎだべした」
匂い立つような華やかさに、すっかり当てられてしまった。

「こっち見でぇ、いい顔してぇ」
花びらの香気と親子の笑顔が混じり合う。

枝振りを地面に写し、自分の立ち姿にうっとりするしだれ桜。

薄日さす庭園に、日本の調べがゆったりと流れる。

虚空の春を掴もうと、枝が彷徨い蕾が膨らむ。

「ゲームど玉コンのどっちが大事?」
選びようのない質問をするのは野暮。

「なんだべぇ?穴ポコから枝が伸びっだぁ」
不思議な物に首を伸ばしてみるのは人の常。

「あん時はおもしゃいっけずねぇ」
「んだっけずねぇ、笑た笑た」
花びらが埋め尽くす空間に、そんな会話が聞こえそう。

列車もゆるりと走り、花を愛でながら名残惜しげに走り去る。

「この淡いピンクがたまらねのよぅ」
淡くはかなげな色彩が、人々の心をとらえて離さない。

「桜ばり見でっげんともよぅ、オラだだて頑張ておがてるんだじぇえ」
枝を折られても、黄緑色の芽が吹き出しやがて青葉に育ってゆく。

微かに揺れる水面へ、数日後に舞い落ちる覚悟を秘めている。

「家の中でしゃべんのもいいげんと、こいなどごで世間話もいいもんだずねぇ」
ベンチに座り、春風を受ける心地よさ。

主の存在も忘れて、自転車は首が痛くなるまで真上に広がる花びらを見つめている。

「南門も開放したんだどはぁ」
「こっからも車が入れるっていうごどが?」
桜が咲く時期は閉めた門を開放し、冬の間に閉ざした心も解放される。

蔦が県体育館の壁にへばりつきながら、人知れず絡みつく力を蓄えている。

「賑やかだごどぉ、みんなしてワンワン踊ったみだいだぁ」
「んだっだな、名前がヒメオドリコソウだもの」
山形じゅうのどこの地面でも踊りの真っ最中。

「鼻かむ姿も素敵だ」
石垣は見て見ぬふりをしてエールを送る。

「地面も温かぐなたなぁ」
「ボールさ当だるより、地面さ寝転ぶほうがいいはぁ」
すっかり覇気を失い、だらけてしまったバットたち。

「見事だずねぇ」
「んだぁ、この桜が一番立派なのに、こごまで見い来る人いねもなぁ」
桜の古木を二人占めできる幸せを噛みしめる。

「あいやや!なんだべ?彩雲?」
「こいなば見っど、何が悪れごど起ぎそうでやんだぁ」
物事は良い方に考えたいが、常に悪い方を考えてしまう人間の性。

「桜から囲まっで野球するなて最高っだべぇ」
山東山南定期戦は春の風物詩。
霞城公園に若い声がこだまし、桜の花びらがフィルターとなって吸い込んでいる。

「綺麗だぁ」
「桜が綺麗なのは当たり前だべず」
「んねず、一直線に並んだ姿が綺麗だてゆったのよぉ」
桜と溌剌とした球児を竜山が静かに見守っている。

黄金色に輝く管楽器の口に映り込むのは、球場とその周りの桜たち。

「見っべ見っべぇ」
「早ぐ登れぇ」
高校生たちの大人びた歓声が聞こえ、子供たちは好奇心を押さえられない。

「すんげぇ、野球て格好いい」
その気持ちを高校まで持続した子供たちが、今グランドに立っている。
 
◆[山形市]六椹八幡神社 ふるさとの吸引力(2013平成25年4月20日撮影)

賑やかな霞城公園を逃れ、ふと思い立ち六椹八幡宮へ来てみた。
花見客のいない場所で、ほころんだ花びらの一輪一輪が迎えてくれる。

「霞城公園は賑やかだべねぇ」
「こごだて梅がこだい咲いっだのにねぇ」
賑やかにワイワイと愛でる桜もいいし、静かに微笑む梅を愛でるのもまたいい。

「山形弁でしゃべらねの?」
「だっさーい」
近頃の小学生は山形弁を話さないという。
八幡神社の境内は何も変わらないのに、言葉は明らかに変わった。

「ほっだい勢いよぐ漕いで大丈夫だが?」
「これくらいへっちゃらぁ。だって楽しいんだもん」
綺麗な共通語が境内に響く時代。

「どうせ漕ぐんだごんたら、二人一緒に並んで漕いでけろぉ」
「そんなこと言われても難しいよぉ」
おじさんの要求に一生懸命応えようとする姿にまだあどけなさが残る。

「おんちゃんは昔こごで遊んでだっけの」
「ふ〜ん・・・」
二人がピンとこないのも無理はない。
鉄棒で遊ぶ二人を見て、数十年前の自分の姿がオーバーラップする。
切っても切れないふるさとへの思いが体に染みこんでいると自覚する瞬間だ。
六椹八幡神社は自分の原点。
ここに来ると、ほっとするような切ないような気持ちがわき上がる。
「山形弁ばしゃべらねくてもいいがら、大人になても山形ば忘れねでけろな」
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