◆[山形市]柏倉 蝉の声とコオロギの声(2012平成24年9月15日撮影)

秋を求めてきたはずなのに、木陰からで出て歩き始めるのが億劫で、ちょこんとすました富神山をしばらく眺める。

「暑いがら頭ば垂れで、だらけでんのが?」
「実るほど頭を垂れる稲穂かなってしゃねの?」
実って頭を垂れる殊勝な稲穂と、暑くて頭を垂れるだらけた人間の差。

「ちぇっと日焼けしすぎんねがい?」
「おらだもよ〜、太陽は好ぎだげんと、ほどがあっずねぇ」
いくら太陽が好きでも、さすがに参ったひまわりたち。

この暑さの中で直立不動とは、稲杭の我慢強さに頭が下がる。

「かあちゃん、喉渇いだ。」
「気のせいだ。忘れろはぁ」
親子の自転車は畑の隅っこで、錆びてもいいから雨が降って欲しいと待っている。

小径の奥で富神山が誘うように待っている。

ヤマゴボウの実の一群が、大気の中へちっちゃな赤い手をつだして揺れている。

「こんちゃ〜」
バイクは玄関先で麦わら帽子をぬぎ、
汗の浮いた顔で挨拶する。

「水虫なのんねべね?」
「蒸れっからしょうがないのっだず」
ゴム長は逆立ちをして足裏を太陽にさらす。

むせ返るような大気の中を歩いていても、どこかで心身の許容範囲と思ってしまう。
これがコンクリートだらけの道だったら心身に赤信号が灯る。

大きな銀杏の木が目の前に迫ってきたので、急ぎ足でその下へ駆け込む。
荒い息を沈める間に聞こえる葉擦れの音が心地いい。

「柏倉八幡神社のお祭りって今日んねの?」
「ほだな明後日だべした」
「んだっけのがぁ。お祭りば写真撮り来たんだっけげんと・・・」
「お祭りなのないったて柏倉はいいどごだじぇ」
信号機もなくコンビニもないのに、子供たちは自分の村を好きだという。

「夏休みは終わたのが?」
「ほっだなとっくに終わたべしたぁ。ああんだ、おもしゃいの見せでける」
子供はブランコを勢いよく降りて走り出す。

「こいずが梅花藻(ばいかも)ていうんだげんと、白い花が咲ぐんだじぇ」
山形市街地では梅花藻が復活したなんて話題になるけれど、このへんじゃ空気のように当たり前に存在する。

子供たちに別れを告げ、もっと富神山へ近づこうと小さな橋を渡る。 

雄々しく迫る富神山の麓では、コスモスの一群がジリジリと照りつける太陽を恨めしく眺めている。

「もうちょっと涼しぐならねど、咲ぐだくないずねぇ」
秋の風物詩という自負が、こんな暑さの中で咲いてはいけないと、咲きたい気持ちにブレーキをかける。

「軍手持てくるんだっけなぁ」
肌を刺すような暑さの中、見るだけで痛そうな栗の一群が陽を浴びる。

暑っづぐ熱したトタン屋根へ、へばりついた電信柱の影は、
すました顔でペタッと張りついて動かない。

薄暗がりの中に潜む空気は冷え冷えとし、
何年も太陽を見ることもなく、
隔絶された世界からただじっと外を伺う。
そんな想像をかき立てる石垣と扉。

熟成された味わいとはこのことか。
積まれた石垣。空に向かう樹木。それぞれが年を経て美しい味わいを醸し出す。

どこまでも続く石垣の脇を、汗を拭き拭きとぼとぼ歩く。
まったくやってこない車。背中を追いかけてくる太陽。

なんとなく目の焦点が合ったコスモス。
視線を感じあたりを見れば、コスモスの奥から蔵の窓がじっとこちらを見ている。

石を運んでくれば施しを受けられたという「おたすけ石」。
これだけの大きな石が運ばれてきたということは、それだけ生活困窮者がいたということ。
涼しくなったら、小さな石ころでも運んでこようか。

蝉の声が喧しいのにコオロギも鳴いているという夏と秋のぶつかり目。
真夏の空を飛行機雲が切り裂き、一面は黄金色の絨毯を敷き詰めている。

目がくらむような太陽の日差しを、ほんの一瞬ススキの穂が隠してくれる。

「焼き塩て、純白になて苦みが消えるんだじぇ」
「おらぁ、焼がっで茶色ぐなてパリパリおだれそうだはぁ」
看板は偽りなく本音をこぼす。

本殿・拝殿が焼失したのに、お祭りが例年通り行われるとは嬉しい柏倉八幡神社。
遠く千歳山を、手をかざしてみるように、幟の竿が天を突く。

引力に逆らえず、だらんと垂れるフジのさや。

柏倉八幡神社の木立の中へ、草むらをかき分け入り込む。
樹間の向こうに山形盆地が広がる。
夏のもやもやした大気の中で、黄色い田んぼの向こうに千歳山や竜山が連なっている。
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