◆[山形市]光禅寺・第六小・夏越の祓い しっとりと緑染みる(2012平成24年6月16日撮影)

最上地方の巨木じゃない。
山形市街地の真ん中に、ひっそりと、でも堂々と巨木が蔦をまとわせ空を突いている。

「ジメジメしてやんだなぁ」
「湿っぽい話すんのやめっべ」
タイヤはジメジメといつまでもつぶやき続ける。

「メーターの見張り番か?」
「湿っぽいのに無味乾燥だがらよぅ」
無味乾燥な一角にしっとりと花を添える。

小道の向こうで雨を含んだ杜が緑を深くしている。
それだけで心がゆったりするようだ。

「傘じゃまくさいぃ」
「片手運伝は危ないぞぅ」
左手に傘を持ちながら、右手でカメラを持つ自分も同じ穴の狢。

小雨も降っているけれど、緑も滴ってくる光禅寺。

貴重な橋のようだから、石橋を叩いたりして渡ってはいけない。
雨は水面へ遠慮するように、音も立てずに小さな波紋をつくる。

小雨がぱらついているのに、穏やかな笑みを浮かべる花の名は?

鐘楼の石垣に、糸を引くのは梅雨の雨。

そこだけが切り取られた空間のように、喧噪の街中にスポッとはまっているようだ。

濡れそぼった枝葉の隙間に、地面を這う小さな白い花。

あまりにも時間がゆったりと流れ、時を刻む音を手のひらに掴めそうな気がする。

「葉っぱば、ほだいいじめでダメだべずぅ」
「いじめっだのんね。雨から守てけっだんだぁ」
自然の営みは人智を越える。

波紋の広がる音さえも聞こえそうだ。
といいたいところだが、中央高運動部の若々しい声が、そこかしこに響き渡る日本庭園。

夕暮れ迫る時間帯。友達の家からの帰り道。この堰の脇を走って通り抜けたっけ。
子供の頃に通るには、心臓を縮み上がらせるのに十分だったお墓と堰と鬱蒼とした杜。

「なんだてこの頃は便利な植木鉢があっずねぇ」
プラスチックの形を見て、学研の学習や科学の付録を思い出す。

たとえ母校とはいえ、子供の親でさえ自分よりずっと若い。
建物も変わり、人々も変わった母校のフェンスで、傘が通り過ぎるのをぼんやり見つめる。

「こだんどごさ飾らっで恥ずがしぐないがよ?」
「恥ずがしいどごろが誇らしい」
山形五堰の真上に飾られていることが、草花にとってはステータスらしい。

「ぴっちぴっちちゃっぷちゃっぷランランラン♪」
カラフルな傘をみれば歌いたくなる。草花だってフェンスから顔を出して手拍子してるじゃないか。

あの柳の並木はどこへ消えた?
今流行のハナミズキに植え替えられ、ちょっと悲しい六小前通り。

歩道橋ができる前は、信号の押しボタンをしょっちゅう押して、車が止まるとにんまりしてた。
いたずら子供の時間はいたずらに流れ、歩道橋の上から濡れた路面と昔の思い出を眺めている。

失敗した花火のように、あちゃこちゃへ頭を伸ばす葱坊主。

水滴を振り払いもせず、整然と記念写真に収まるように並んでる。

「頭濡っでやんだったらぁ」
「若いがらほだな気にすんなぁ」
「変なおじさんいだがら振り向ぐなよ」
やけにでかいぬいぐるみを目で追いかけて、おじさんは心が濡れる。

「雨降りだがらねぇ」
「明日だど団体で百人くらい来るんだげんとなぁ」
おじさんたちは手持ち無沙汰で、雨脚を眺めている。

「あやとりだが?」
「目が回るみだいだなぁ」
看板は迷わないように、親切に順路を示す。

「なごしのはらへする人は・・・」
この一文を朗々と大きな声で、
六椹の杜に響かせなければならない。

「やんばいだなぁ。これでこの夏も大丈夫だぁ」
これこそ精神的なクールビズ。

三々五々訪れる人々は、一様に安堵の表情を浮かべ、梅雨空の街へ帰って行く。

「この頃はアベックで夏越の祓いがぁ。時代も変わたもんだなぁ」
相合い傘が鳥居をするりとくぐってゆく。

「なーんだ。通り過ぎで行ったどれはぁ」
高校生のアベックにとって六椹八幡神社は通過点に過ぎなかった。
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